今日9月11日は、米国人だけでなく世界中の人にとって、決して忘れることのできない日です。2001年のあのおぞましい同時多発テロから、今年で25年という節目を迎えました。
今年はマサチューセッツ州でも例年にも増して大規模な追悼行事が行われています。州議事堂前では犠牲者の名前が読み上げられ、午前8時46分(最初の旅客機が世界貿易センタービル北棟に突入した時刻)には州全体で黙祷が捧げられました。ヒーリー州知事は州内の施設に半旗を掲げるよう指示し、家族の方々とともに州議事堂での追悼式に参列。そして式典の締めくくりとして、ここボストンのPublic Garden(パブリック・ガーデン)にある9.11メモリアルで、献花の儀式が執り行われました。犠牲となった2,977人の中には、マサチューセッツにゆかりのある方も206人含まれていたといいます。
25年前のあの日、私は日本でもおなじみの不動産仲介業者のボストン支店長を務めていました。
あの朝、事務所の隣のテレビで
あの日もいつものように出勤し、事務所の隣にあった(今はなき)ブロックバスター・ビデオの店頭テレビを何気なく眺めていました。画面にはニューヨークと思われる街並みと、中央のビルからモクモクと立ち上る黒い煙。「何の映画だろう?」とよく見ると、それは映画ではなく、ライブ中継のニュースでした。レポーターが「メルトダウン(Melt down)!」「コラップス(Collapse)!」と叫んでいた声を、今でも鮮明に覚えています。
*当時の映像です。これを見ると当時をまざまざと思い出します。衝撃に弱い方は見ないでください。
事態の詳細が明らかになるにつれ、「大変なことになった」という強い衝撃が押し寄せてきました。当時、私たちの会社にはニューヨーク支店もあったため、慌てて電話をかけましたが、回線は混雑し、まったくつながりませんでした。
静寂に包まれた空
ボストンのローガン国際空港から飛び立った航空機がテロに使われたこともあり、ボストン市内は一気に騒然となりました。その後、連邦航空局(FAA)による全米の航空管制規制(グラウンディング)が発令され、米国の空から旅客機が完全に姿を消しました。「空を飛んでいるのは鳥とUFOくらい」と例えられるほどの、気味が悪いほどの静寂が、全米を包み込んだのです。

業務を直撃した渡航禁止
その影響は、ダイレクトに私たちの業務にも押し寄せました。年内はほぼすべての日本企業が米国への渡航を禁止したため、駐在員、留学生、研究者といった新たに渡米される方は皆無となりました。
さらに深刻だったのは、すでに現地に滞在していた方々の状況です。特に若い留学生の中には精神的に追い詰められ、急遽帰国を余儀なくされるケースが相次ぎました。ただ救いだったのは、ほとんどの大家さんがこの異例の事態に理解を示し、違約金などを請求することなく、温かく退去手続きに応じてくれたことでした。現地コミュニティの温かさに触れた瞬間でもありました。
翌2002年の夏になっても、日本からの渡米者はほとんど戻らず、支店は営業しているものの「開店休業」という苦しい状態が続きました。
未曾有の危機の中での独立
しかし私は、この未曾有の危機のさなかに、一つの決断をします。「独立」です。
なぜか。それは、困っている大家さんたちの姿を目の当たりにしていたからです。急な退去や空室の増加に頭を悩ませる大家さんたちに、もっと親身になって力になりたい――そんな思いが、日に日に強くなっていきました。そして、こんな時期だからこそ、できたてほやほやの会社にもチャンスがあるはずだと、私は確信していたのです。
米国という国の強さを、底力とともに見せつけられたのもこの頃です。大きな痛手を負いながらも、国民が一つになって立ち上がり、私が独立を果たした2002年の秋頃には、街は少しずつ平常を取り戻し始めていました。日本人赴任者や研究者、留学生たちも、少しずつボストンへと戻ってきてくれたのです。
25年目の今日に
当時は「これ以上の経済的・社会的な危機はないだろう」と思っていました。しかし、のちに経験したコロナ禍のほうが、振り返れば数倍も大変な試練だったように思います。それでも、あの9.11の危機を乗り越えた経験があったからこそ、どんな苦境であっても前を向いて歩み続けることができたのだと、今、改めて感じています。
25年目を迎えた今日、あの日失われた多くの尊い命に祈りを捧げるとともに、どんな困難からも立ち上がってきた人々の強さに、改めて思いを馳せています。

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